野村忠宏さんは柔道60キロ級として、アトランタ、シドニー、アテネの3オリンピックで優勝し金メダルを獲得した柔道家です。
現在は現役を引退し、若い世代が輝けるようにと自身の経験を生かしたサポートをしています。
大学教授や会社の取締役など、その経歴が凄いと世間では話題になっていますね。
博士号や医師免許も取得したという噂もあるようです。
柔道家としての実績は有名ですが、教授や取締役、医師というのは気になりますね。
今回は野村忠宏さんの現在の仕事と主な経歴について医師免許の件とあわせて調査していきます。
では、楽しんで行ってみましょう!
【2022年】野村忠宏(柔道)の現在の仕事は大学教授や企業取締役
野村忠宏さんは、2022年4月1日に名城大学の薬学部特任教授に就任しました。
薬学部1年次前期開講科目、健康・スポーツ科学理論における『スポーツ医学(栄養)』に関する講義を担当。
”「柔道の試合より緊張した。名城大学の学生さんはとても真面目で熱心だった」と授業の感想を語りました。
また、「今日の授業は自分のことで必死だったけど、今後はより学生さんに伝わりやすい表現で教えていきたい。学生さんを巻き込んでやっていけたら」と抱負を語りました。”
引用:https://www.meijo-u.ac.jp/news/detail_27464.html
オリンピック3連覇を成し遂げた英雄でも、緊張することがあるんですね。
緊張したことだけではなく、次回に向けた反省まで考えているところが野村忠宏さんらしいです。
名城大学の特任教授になったのかについては後述しますので、お楽しみに。
野村忠宏さんは2015年に現役を引退し、キャスターやコメンテーターとして活躍していました。
そして、驚きのもう1つの顔は、『株式会社Nextend』の代表取締役社長です。
株式会社Nextendは、国内外を問わない柔道の普及活動と、若いアスリートが世界で戦うためのサポートをしている会社です。
野村忠宏さんは野村道場といった形で配信を行ったり全国に出向き、指導や講義なども行っています。
若いアスリートにとって、元オリンピック選手の経験を直で聞けるというのは大きな財産になりますね。
野村忠宏さんが大阪のホテルで引退報告会をした際には、
『指導者としての道を進みたい。
柔道を通して経験したことを若い選手や世界を目指して頑張っているトップアスリートたちに伝えたい。
今までの恩返しをしていきたい。』
と語っています。
今までの恩返しがしたいという言葉が野村忠宏さんの人格の高さを表していますね。
その言葉通り、株式会社Nextendと教授という肩書のもと若い世代の指導にあたっています。
次は野村忠宏さんの主な経歴を見ていきましょう。
野村忠宏の主な経歴
野村忠宏さんは、奈良県北葛城群広陵町に1974年12月10日に生まれ。
野村忠宏さんの家庭は柔道一家で、物心ついたころから祖父が設立した豊徳館野村道場で柔道を習います。
現役当時は『天才肌』と有名でしたが、中学生の頃は体重が30キロほどしかなく、試合では女子に負けてしまうこともあったようです。
地元、天理高校に進学してから才能は大きく開花。
1992年に奈良県大会で優勝し、全日本ジュニアで準優勝を飾ります。
天理大学に進学後、1996年の全日本で優勝したことでオリンピックへの出場権を獲得。
初めての出場となったアトランタオリンピックで金メダルを獲得します。
この時に披露した金メダルを噛むポーズは、世界的に有名な仕草となりますよね。
1997年、1998年と全日本を連覇し、世界柔道選手権でも優勝。
そんな躍進の最中、左ひざ靭帯を損傷してしまい1999年の嘉納納五郎杯の準決勝で敗退。
この時にケガの治療と大学の『修士論文』執筆のために半年ほど柔道から離れます。
昔ながらのアスリートであれば、ケガを押しきり練習や試合を続けたり、短期間の治療だけに留めたりすることが多いですが、
野村忠宏さんは長い期間しっかりと治療にあてることをしており、且つ休むだけではなく学業に努めていました。
他のスポーツ選手と違う雰囲気を感じますよね。
意識した休暇と体づくりは功を奏し、2000年のシドニーオリンピックで2連覇を達成。
オリンピック2連覇は柔道軽量級では史上初めてとなる快挙となりました。
この快挙を評価され、国からは緊急叙勲として『銀杯(一組・菊紋)』が授与されます。
実績と世間の評価をもとに国が野村忠宏さんを認めたということですね。
2001年には元モデルの酒井葉子さんと結婚し、大きな話題となりました。
結婚を発表後は休養も兼ねてサンフランシスコへ語学留学。
その後、世界柔道の銅メダルをはさみつつ、2003年と2004年に全日本で優勝。
3度目のオリンピック、『アテネオリンピック』の出場権を獲得します。
アテネオリンピックでも3連覇となる金メダルを獲得。
この偉業は柔道史上初であり、全競技を通してはアジア人初の快挙となります。
あまり知られてはいないですが、アテネオリンピックの10日前に野村忠宏さんは練習中に右助軟骨を痛めていて、当時2日間くらいは動けない状態でした。
”「ここまで仕上がったのになぜ……」と思った。だが、気を抜いた時のケガではなく、集中していた際の事故である。骨折や靭帯損傷といった重大なケガでもない。最悪の場合、痛み止めを打てば何とかなる、と思うことで開き直れた。”
引用:https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/fight/2019/12/05/___split_31/index_2.php
世間が認知しているような順風満帆の優勝ではなかったということですね。
相手からの投げで息が詰まるほどの痛みがあったという、まさに満身創痍の状態にも関わらず圧倒的な強さを見せてくれました。
かなり苦しい状態での優勝だったこともあり、アテネオリンピック後は柔道の試合には出場せず世間では引退か?と噂されます。
周囲の疑念を一蹴するかのごとく、2006年に次回北京オリンピックでの金メダル獲得を目指していることを宣言!
この宣言に周囲から大きな期待もありましたが、残念なことの練習中に古傷である右ひざの靭帯を断裂。
手術までの日取りもなく、完治しないまま臨んだ全日本では準決勝敗退。
オリンピックの代表選考から外れることとなります。
靭帯が断裂している状態で、猛者ひしめく全日本選手権で準決勝まで進むことが素晴らしいと思います。
その後もロンドンオリンピック出場を目指して努力しますが、2015年8月に現役引退を表明。
日本中を盛り上げてくれた柔道界の英雄の引退に世間では大騒ぎとなりました。
引退後はコメンテーターやタレント業もしつつ、2018年には株式会社Nextendを設立し代表取締役社長となります。
現在では、若いアスリートの育成に向けて日々努力されているんですね。
柔道だけを見ても素晴らしい経歴ですが、さらに博士号も取得しているようです。
詳細を見ていきましょう!
野村忠宏は医学博士号取得で医師免許も?
野村忠宏さんはスポーツ医学を学ぶために、2009年に引前大学大学院医学研究科博士課程を受験しています。
2009年だと全日本選手権の準決勝で敗退して北京オリンピックへの出場が成し得なかった翌年になりますね。
引前大学で4年間の医学研究科博士課程を修了し、2013年に医学博士の学位を取得しています。
柔道で素晴らしい実績を残しつつも、学問にも専念する姿が凄いですね。
当時の野村忠宏さんの学位指導を行ったのが名城大学の薬学部健康・スポーツ科学研究室の梅田孝教授です。
梅田孝教授とのつながりから野村忠宏さんは名城大学の特任教授になったということになります。
野村忠宏さんは医学博士の学位を取得していますが、医師免許は持っていません。
博士号と混同して世間では、医師免許取得!?と勘違いがされたんですね。
医学博士は『医学研究の能力を持つ人』なので、医療行為はできません。
医師免許を取得するためには、6年間医学部医学科で学んだあと超難問と言われる医師国家試験に合格する必要があります。
野村忠宏さんは医師免許までには至っていないので、医学研究のための博士号取得ということですね。
野村忠宏さんは若い世代のサポートを主としていますので、実践経験だけではなく理論的に身体能力の向上を諭せるよう、取得・指導しているんですね。
オリンピック3連覇という実績があり、医学博士号も取得している野村忠宏教授の授業が受けたくなります!
まとめ
今回は、野村忠宏さんについて現在の仕事や経歴、博士号取得について調査してきました。
【2022年】野村忠宏(柔道)の現在の仕事は大学教授や企業取締役
・2022年4月1日に名城大学の薬学部特任教授に就任
・自身で設立した株式会社Nextendの代表取締役社長
・若い世代の育成のために全国各地で活動している
野村忠宏の主な経歴
・全日本選手権通算6度の優勝
・アトランタ、シドニー、アテネの3オリンピックで優勝
・2018年には株式会社Nextendを設立し代表取締役社長となる
野村忠宏は医学博士号取得で医師免許も?
・2013年に医学博士号を取得(引前大学大学院卒業)
・医師免許は取得していない
野村忠宏さんについては、いかがでしたか?
柔道の実績はみなさん知っていることが多かったかもしれませんが、教授や代表取締役社長というのは驚きましたね。
現在進行形で、全国各地を若いアスリート育成に向けて駆け回っている野村忠宏さん。
名城大学の特任教授となったのも最近のことですから、さらなる飛躍が期待されますね。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。